疫癘(えきれい)の御文
最近のお通夜では「正信偈」をご一緒にお勤めした後、「歎異抄」の第一章を拝読、そして少しお話する式次第としている。以前は敦賀における真宗大谷派の伝統を踏まえ、「御文」四帖目第九通の〈疫癘(えきれい)〉を拝読していた。
当時このごろ、ことのほかに疫癘とてひと死去す。これさらに疫癘によりてはじめて死するにはあらず。生まれはじめしよりさだまれる定業なり。…
[意訳]
最近、新型コロナウィルスでお亡くなりになる人がいる。世間ではこの伝染病が原因で亡くなった、と思われているが、真実の道理に照らせばそうではない。病気はあくまでも縁であり、死の原因は人間として生まれたことにある。
読まなくなった理由
昔の人は、悲しみの場でこの〈疫癘〉の「御文」を耳にして、五百年前に本願寺第八世・蓮如が手紙で表現した深い願いをしっかりと受け止め、生きていることを問い直すことができたのだろう。しかし、今日このような内容を、充分に心のウォーミングアップができていない人びとが多い中で、説明なしにいきなり伝えると、恐らく消化不良を起こすに違いない。かえって逆効果になるだろう。そう判断したのが読まなくなった理由である。
自分と死とのつながりが「縁」遠くなっている
別の角度から言うと、お釈迦さまが明らかにした教えにおいて、縁起の法というのは基本中の基本なのだが、この「縁」ということが自分にとってどういうものなのかわからなくなっている時代である。豊かな世の中になり、生きているのが当たり前のような感覚に覆われて、自分と死とのつながりが「縁」遠くなっている。
正体不明の存在
だから、いずれは死ななければならない、そして、それがいつなのかわからない、明日なのかもしれない。そんな儚くてもろくてか弱いこの身、しかも誰にも代わってもらうことができないこの身が真剣に問われることなくただ時間が流れている。
つまり、この身における「縁」と「因」との関係が整理されずにごっちゃのまま、フワフワとした正体不明の存在になっていると言える。たとえ、蓮如の金言であっても、どうせ死ぬのだから仕方ない我慢するしかない。と、ただ忍耐を強いる冷たい言葉のように聞こえて、現実に立ち止まることはできないだろう。
コロナに感染しなくても、いずれは死ななければならない
新型コロナウィルスに著名人が感染したとの報道。行事の延期や中止、外出の自粛なども行政から要請されている。すると、これからどうなるのだろう、将来に向けて自分はどうすればいいのだろう、と不安になる。実は、この不安の根っ子には、自分が正体不明のまま生きている現実への不満・不信がある。
乱暴な表現になるが、コロナに感染しなくても、いずれは死ななければならない。だから、今の困難な現実を、自分はなぜ生まれたのか、何のために生きているのか、問うご「縁」にせよ、と仏から促されているのである。
[真宗大谷派指月山西誓寺寺報「ルート8」222号から一部編集して転載]
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