デニ・ムクウェゲ(Denis Mukwege)医師の言葉。
一九九九年にコンゴ民主共和国(以下、コンゴ)東部のブカブにパンジ病院を設立し、五万人以上の性暴力被害者の治療に尽力してきた婦人科医師。コンゴ東部における紛争と性暴力の関係を世界各地で訴え、二〇一八年にナディア・ムラド氏とともにノーベル平和賞を受賞した。NHK番組のインタビューでこう語る。
「世界中で人々の意識の変化を感じる。女性たちが沈黙を破り、語り始めたのは良いこと。沈黙すれば性暴力は続く。加害者たちは守られてきた。
“恥ずべきなのは被害者ではなく加害者側だ”と、世間の考え方が変わってきている」
葬儀の和讃
さて、葬儀(葬場勤行)では「正信偈」に続き短念仏・(三重念仏)・和讃・回向とお勤めされる。女性が亡くなった時の和讃には
(弥陀の大悲ふかければ)
仏智の不思議をあらわして
変成男子の願をたて
女人成仏ちかいたり
の三行が添えられる。
これは、阿弥陀仏の四十八願の三十五番目の願いの受け止めだが、女人が男子に変わらなきゃダメなのか、それは女人を尊重することになるのだろうかと、批判的に評価する人が少なくない。真宗他派ではこの和讃を読まなくなっており、当派(真宗大谷派)住職の中でも男性の場合と同じ和讃を選ぶ人がいる。
まず変成しなきゃいけないのは男
自分も一時期そういう意見の方に流れていたが、最近、和讃の意味が全く逆のものとして聞こえるようになってきた。この世は何でも二つに分かれてしまう。男女・老若・好嫌・美醜…。もし、男を強い側、女を弱い側を象徴しているとする。強い側にあるものの意識が変わらない限り、弱い側は沈黙と忍耐を強いられることになるだろう。変成しなきゃいけないのは、強い側、男なのだ。仏の慈悲心、平等心はそういう目覚めを呼びかけ促しているのではないか。弱い側の声を聞くことができるようになって下さい、声が自然に出る場を開いてください…と。
だから、身近な大切な人を失う悲しみ(葬儀)をご縁として、生きる方向を問い直す貴重な和讃としてお勤めしている。
[真宗大谷派指月山西誓寺寺報「ルート8」220号から一部編集して転載]
●エピローグ●
その後この和讃について、問い直す機会があった。
複雑な背景をもつ和讃を、葬儀という不特定多数の人がお参りする単発的な場で読むのは、誤解のタネを一方的に与えることになるかもしれない。だから、上記のような受け止めを丁寧に伝えることができない儀式での採用は避ける方がいい。今はそのように考えを改めている。
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