中国・唐の時代に活躍された善導大師(613―681年)が著した『観経疏(かんぎょうしょ)』の言葉。お経を通して伝えられる仏の教えとは、この私自身そのものを映し出す鏡のようなはたらきをするものだと。
私自身の純粋な事実を映し出す
鏡を見る。髪の毛が乱れていないか、顔色は良好か…外出する前には確認するだろう。ご飯粒が口についていても、鏡を見忘れると自分で気づくことはできない。鏡は、こちら側にあるソロバン勘定や好みに影響されることなく、純粋な事実を明からさまに伝えるものである。この意味で、鏡に視線を定めて見つめ、更に映し出された事実を自分のものとして受け止めるには勇気が必要なのかもしれない。そして、その勇気は思わぬところから与えられる。
犬が鏡となる
同居するトイプードルからいろいろと学ばされる。人間に可愛がられることに慣れている愛玩犬。子どもたち数人が囲んで順番に触っても、噛みつくこともなくシッポを振っている。疲れると自分用に設けられたマットへと移動、腹を上にして眠る。あまりにも無防備で安心しきった姿にこちらの頬は緩むばかり。
ところが、そんな様子が激変することがある。骨付き肉に似せて作られたおやつを渡す。すると、マットまでくわえて運び、ひとまずは口から離す。しかし、表情や雰囲気はもはやそれまでのほんわかしたものではない。ギラギラ・トゲトゲしていて、こちらが近づく素振りをみせるだけで、肩をいからせウーウーと声で威嚇。それがこれまで育ててくれた飼い主(連れ合い)であっても同じ反応になる。全くもって違った犬になってしまうのだ。
驚いたと同時に、ああ、ここに自分の姿が映し出されているなあ、煩悩とはこのようなものだなあ、と察知させられた。これは自分独りだけのもの、他者に奪われたくない…。そんな心にとらわれコリ固まってしまうと、周りは全部自分を脅かす敵に見えるのだろう。逆に、自分を案じ、支え、導いてくれている尊い周りの存在が意識から消えてしまう。
供養する心に立ち帰る
ある門徒さんから「お供えはなぜするのですか」と尋ねられた。とても本質的な問いだ。お供えは供養する心、つまり、人(他者)と共に生きる心がカタチとなる。私たちの日ごろの心はあれが欲しいこれが欲しい、そして、自分のものにするためにどうすればいいか、とウーウーうなっている。実はこれこそが苦しみの原因、迷いの心。だから、欲しい心を放棄して仏さまに捧げよう。握る手を開き合掌、仏と通じることで、共に生きる心が確かめられる。それがお下がり。お供えした品は自分の胃袋が満たされるだけでなく、多くの人と広く分かちあい響きあう喜びへと転じるご縁となる。
コロナ禍の中、感染者や医療従事者への差別・偏見が問題になっている。全国的に自分だけが助かりたい、というおやつを口にくわえた状態が蔓延している迷いの渦ともいえる。秋季永代経はこんな時節において、亡き人を通して供養する心に立ち帰る貴重な場。慎重にではあるが、大切にお勤めしたいと思う。
[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」227号から転載
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