〈帰命〉に始まり、〈帰命せよ〉で終わる
真宗門徒が日常お勤めする『正信偈』。冒頭句は〈帰命無量寿如来〉、つまり最初の言葉は〈帰命〉である。百二十句からなる偈文の次は念仏和讃、馴染みが深い和讃〈弥陀成仏のこのかたは〉次第六首引では、実に五首が〈帰命せよ〉という言葉で終わっている。
…真実明に帰命せよ …平等覚に帰命せよ …難思議を帰命せよ …畢竟依を帰命せよ …大応供を帰命せよ
〈帰命〉に始まり、〈帰命せよ〉で終わる。そんなお勤めを繰り返し繰り返し声に出している。
GO TO キャンペーン
コロナによる経済的打撃から回復させるための政策としてGO TOキャンペーンが企画されている。(見直しもされているが)どこそこに行きましょう、との奨励で、その行先となるのは観光地や宿泊場所、あるいは飲食店である。こんな時、目的地をどうするか、ああでもないこうでもないと計画を練るのは、ある面では楽しい。
しかし、その目的地は通過点で決して最終地とはならない。到着した喜びを味わっているうちにも、さあ次はどこに行こうか、と別の場所に心は移動していることはよくある。
人生はどこに行く
この身を賜ってこの世に生まれ出た私。一体どこにGO TOしようとしているのだろう。目的なり目標を立ててそこに行こうと努力する。簡単に到着するものではない。何が原因だろうと悩みながらもがく毎日。たまたま上手く到着しても、すぐに次なる目的地が現れ出る。
オリンピックで金メダルを獲れば、二連覇が求められる。大学に合格すれば、就職は…。結婚すれば、子どもは…。住宅ローンがあるので、と働いて働いてやっと返済が終わりこれで楽になると思った頃には身体はボロボロ。薬を何種類も離せない。そして、確実に死は近づいている。
帰命せよ
行くことばかりに明け暮れて、立ち止まることのできない私。だから、なぜ生まれたのか、生きることはどういうことなのかと真正面から問うこともない。そんな私に、それでいいのか、と呼びかけてくる声がある。いつまで迷いの世界でフラフラしているのか、早く帰ってきなさいという声だ。
[真宗大谷派指月山西誓寺寺報「ルート8」229号から編集して掲載〕
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