仏心というは大慈悲これなり

泉惠機先生にいただいた揮毫

住職になって間もない頃、先月亡くなられた泉惠機先生に何か筆書きのものをいただきたい、と揮毫をお願いした。三年後に色紙一枚と画仙紙二枚を賜った。前者は庫裏の玄関先応接部屋、後者は掛け軸にして報恩講の時などに座敷でお飾りしている。

掛け軸の一つは、「仏説観無量寿経」のこの言葉。

人間の思いを超えた愛

慈悲とは、苦しみを抜いて楽を与える仏の心で、一般的表現での愛に相当する。ただ、子どもを愛するが故に自分の都合を押し付けて、子どもに辛い思いをさせてしまう親の事例など、人間発の愛は煩悩の領域にある。

慈悲の上に大の字がつくのは、そんな人間発の愛とは立場が違う心、人間の思いを超えた温もりある心が仏の方から届けられているからである。お金がなくて苦しんでいる人、お金が欲しい人にお金をどうぞと与える愛、つまり、苦しみの状態を改善させるために援助する心はもちろん必要。しかし、お金があっても人間は苦しむ。だからもっと大事なことは、なぜ苦しむのかを明らかにし、苦しみの根本原因にメスを入れることだろう。苦しみを何度も繰り返さないためにも…。

ディズニー映画「アラジン」 (ネタバレ注意)

ディズニー映画「アラジン」。三十年ほど前にアニメが作られ、近年も実写版がヒットした。先日テレビでノーカット上映されたものを観る機会があり、ハッとさせられることがあった。

アラビアンナイト(千夜一夜物語)の中の一つと伝えられる「アラジンと魔法のランプ」が原作。有名な物語だが実は原典が存在せず、後世の作品だということがわかっている。ディズニーのものは、この原作を脚色したもの。

三つの願い

主人公のアラジンは、国の大臣ジェファーに洞窟でランプを探すことを命じられる。すると、見つけたランプから魔神ジーニーが出てきて、三つの願いが叶えられると知らされる。アラジンはジーニーにあなたはどんなことを願っているのか、と逆に尋ねる。ジーニーは「自由」がほしい、何でもできる絶大な力の一方で課される制約から解放されたいのだが、主人が願わなければ叶うことがない…と。

さて、自分を王子にしてほしい、と一つめの願いを使ったアラジン。二つめは海で溺れ死ぬ危機からの脱出に使われる。ところが、三つめを使う前に肝心のランプがジェファーに奪われてしまう。ジェファーは願いを二つ使用して王になり、世界一の魔法使いになる。ところが、この二つはジーニーの力によるものだとアラジンに煽られ、三つめは自分がジーニーになることを願ってしまい……。

ジェファーに重なる私たち

アラジンがジーニーを自由にすること、魔法が支配する世界、力を争う上下関係から共に生まれ変わることで物語は結ばれる。

では、私たちが願いを三つ与えられるとしたら、何に使うだろうか。何に愛を注ごうとするだろうか。私たちと重なるのはジェファーだろう。

大慈悲―魔法(煩悩)から自由になる

例えば、杉本福井県知事が四十年超原発の再稼働に同意した。三つの願いを当てはめてみよう。知事という地位につく(力を得る)という願いが一つめ。二つめはお金を得る(五十億円の交付金)という願い。そして、同意をしたということは、ジーニーになること―力は強くなるが永遠に制約が課される―を三つめの願いにしたことになるのかもしれない。

魔法から自由になりたいと願うジーニーの心、この心に共鳴して自由を与えようとするアラジンの心。魔法 、つまり煩悩に迷わされている私たちの中からは決して生まれてくることはない。けれども、そんな私たちがジーニーやアラジンの心にハッとさせられところがあったら、大慈悲が届いているということである。

[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」235号から転載]

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