白骨の御文
我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず… 本願寺第八世蓮如上人のお手紙「白骨の御文」の有名な一節である。
深い悲しみをご縁として
身近な人、尊い人を亡くし、葬儀を営む。そして、火葬後にはお骨を抱えてお寺参り。還骨のお勤めと呼ばれるが、その時に拝読されるのがこの「白骨の御文」である。当院では異例とはなるが、ここ数年参拝者とご一緒に音読している。この名文に身をもって触れていただきたいからである。
今やお骨となられた亡き人には、とても大切な仕事が与えられている。それは、お骨という姿を通して残された人々に死という現実を問いかけること、死と裏表一体の生を照らし、人間の儚さ・か弱さ・重さへの目覚めを促すことである。逆に、私たちは深い悲しみをご縁として人生に立ち止まり、死が自分の内側にある事実に向き合い、生きる道を問い直す歩みを始めることだろう。
人やさき 人やさき
しかしながら、人生に立ち止まることはきわめて難しい。言い換えれば、〈我やさき、人やさき〉という言葉が耳の中を通過する。なるほどそうだなあと思うことはあっても、頭のところにボヤーッとモヤがかかったままで、どうにも腑に落ちてこない。だから、死を自分というものから離れた外側に起こった出来事として眺めてしまう。
すると、〈我やさき、人やさき〉はいつしか〈人やさき、人やさき〉という意識の上に乗っかってしまう。人間は迷える存在であると言われる所以がここにある。
社会的な暴力へと変化
更に〈人やさき、人やさき〉という意識が意識の中で留まっていれば、単に個人的な問題だが、この意識が外側に露出すると社会的な暴力にもなりかねない。
悲しい話を聞いた。コロナの集団感染が起こった学校に子どもを通わせていたご家族が、引っ越しを余儀なくされた…と。感染を批判する心ない張り紙など、周囲の偏見・蔑みに耐えられなくなったのが理由らしい。
明日は我が身
実は〈人やさき、人やさき〉という意識の根っ子には、人がどうなろうとも我は大丈夫でありたい、自分だけ救われたい、という煩悩がある。そして、その意識が強まると自分を守ろうと外側を攻撃するようになる。人を傷つけて苦しめることになっても…。
今、〈我やさき、人やさき〉つまり〈明日は我が身〉と受け止める覚悟が必要ではないだろうか。感染が自分の内側の出来事との立場からなら感染者と手を結び支え合う方向が見えてくるはず。
[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」から転載]
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