世界が呼んでいる 世界に待たれている

寺田寅彦『柿の種』短章 その一

日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。
このガラスは、初めから曇っていることもある。
生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。
二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。
しかし、始終ふたつの世界に出入していると、この穴はだんだん大きくなる。
しかしまた、この穴は、しばらく出入しないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。
ある人は、初めからこの穴の存在を知らないか、また知っていても別にそれを捜そうともしない。
それは、ガラスが曇っていて、反対の側が見えないためか、あるいは……あまりに忙しいために。
穴を見つけても通れない人もある。
それは、あまりからだが肥り過ぎているために……。
しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある。 
まれに、きわめてまれに、天の(ほのお)を取って来てこの境界のガラス板をすっかり熔かしてしまう人がある。

(大正九年五月、渋柿)

二つの世界

 作者は「天災は忘れた頃にやってくる」という警句で有名。この随筆は俳句雑誌『渋柿』の巻頭に掲載されたものだ。太字部分=「詩歌の世界」を「仏の世界(浄土)」と読み替えて味わいたい。

日常生活の世界」を世間(娑婆)という。世間を超えた世界が「仏の世界(浄土)」。そして、この二つの世界を出入りする通路となる役割・はたらきが念仏だろう。もし通路がなかったら、世間の中に閉じこもって生きるしか道はなくなる。息が詰まる。

そこで、報恩講。二つの世界を仕切る境界のガラス板を熔かした人(親鸞)の生涯に学び、念仏精神に立ち帰る仏事である。だから、報恩講ではまずもって「日常生活の世界」とは異質の世界に触れることに大きな意味がある。世間が全てではなく、目には見えなくても真実功徳の世界に支えられて生きている自分、二つの世界を往ったり来たりして生きている自分自身に出あうのだ。

世間を出る 世間に出る

日常生活の世界」、世間とは、損か得か・好きか嫌いか・強いか弱いか・上か下かなど、善悪を自分の抱えるものさしで量り、こうでなければダメだととらわれている世界である。そして、とらわれが根本原因で戦争や差別・偏見という悲劇が繰り返されているにもかかわらず、私たちはこの世界にしがみつき、この中で頑張るしかない、強く大きく立派になることが幸福への道だ、と錯覚させられている。曇り、つまり煩悩に迷わされているからである。

もし、錯覚だった、〈そらごとたわごと〉だったと気づくことができれば、その瞬間世間を出た(往生)ということ。とらわれから自由になって通路を戻り、世間に出てくればいい。そのエネルギーが念仏である。

世界が呼んでいる 世界に待たれている

棄てた一粒の柿の種
生えるも生えぬも
甘いも渋いも
畑の土のよしあし

柿の木は土に根を張り、日差しや雨水・養分などの力によって成長し、実を結ぶ。種から実を生み出す世界は、目には見えない。そんな世界が呼んでいる。世界に待たれている。

[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」239号より編集して掲載]

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