新年のテーマ
「正信偈」では〈重誓名声聞十方〉
「誓いというものは自分自身に約束することです。他人に約束するということを通して、自分に約束するのを誓いというのです。そこに自分の名をもって公開するということがあります。自分だけでひそかに決意するということはありますが、それは個人的決意であります。…自己の決意の公開であります。…それが誓いをあらわす言葉であります。」 藤元正樹『正信偈聞誌一』
戦争体験談を聞く
「遊学塾」で中学生と交わるようになり、気づいたことがある。この世代の子どもたちの周辺には、先の戦争当時具体的にどんなことがあったのか、体験を話してくださる人がいない。このため教科書に載っているから戦争があった、と知ってはいても、どこか遠くで起こった過去の出来事になっているようだ。このままでは戦争の悲しみ・愚かさは時間経過と共にかき消されていくだろう。一方、ではこの自分はどうだろうか、と問い直すと五十歩百歩と言える。戦地に赴かれた方などの話を何回も耳にしたが、真剣に聞いていたかとなると、心もとない。
そこで、この秋の永代経では、読経の後、住職法話の一環でお参りされていた門徒さんから戦時中にどんなことがあったのか、対話形式でお伺いする機会を設けた。その場におられた役員さんが、そんなことがあったのか、驚かされた…と感想を誠実に述べられたのも印象に残った。この一年、可能な限り戦争体験談を聞き書きして整理しておこうと思っている。お話下さるような方がおられましたら、ご自宅まで足を運びますので、自薦他薦を問わず是非ともご連絡いただきたい。
仏の声として聞く
普段私たちがやりとりしている会話は天気の話、自慢話、悪口・噂話…。興味や関心がなければ軽く聞き流したとしてもどおってことはない。世間話の常である。しかし、戦争体験談はそれらとは比べられない重みを伴うもの。先の門徒さんは「この記憶は何度も夢に出てきた」と語られた。この意味では、喜んでお話したいことではない内容かもしれない。でも伝えずにはおれないものが重い記憶の中に刻まれているのだろう。だから、話す側と同様に聞く側にも覚悟と決意が求められる。
言い換えれば、重い記憶の奥底から呼びかけられ響いてくる、あらゆる人を救わんという誓いに触れるご縁なのだ。戦争体験談を世間話でなく、仏の声〈南無阿弥陀仏〉の名告りとして聞くのである。
[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」240号より転載]
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