除夜の鐘
新年をお迎えする時に全国各地のお寺でつかれる除夜の鐘。真宗寺院では公式行事となっていないが、当院でも例年十一時五十分からついている。
鐘の数は百八回というのが一般的で、諸説あるが煩悩の数を意味している、と言われる。当院がつく回数の目安は、その四分一に相当する二十七回。お参りされる希望者には自由についていただけるよう開放しているので、それ以上になる年もある。
修正会
年が改まり、最初のお勤めは「修正会」。除夜の鐘に引き続き営まれるお寺もあるが、当院は午前十時からが慣例となっている。
正しく修めるのは信心。この一年、念仏申す心を拠り所にして生活する意味・姿勢を確認する。煩悩ということに留意するのならば、煩悩を肯定し、拡大させる生き方ではなく、煩悩を抱えて生きている悲しい事実に向き合い、真実の道理に立ち、煩悩から自由になって生きていこうと歩む方向である。
煩悩がわからない
説明すればそういうことだが、この煩悩というものがなかなかわからない。なぜならば、たいていの人は煩悩を満たしてくれるような宗教を求めてしまう煩悩に迷わされている(=無明)からである。初詣で一般的に手を合わせる中味、家内安全・商売繁盛・無病息災…は人間として素朴な気持ちではある。けれども、これらの思いに心が占有され固まることによって、自分も他人もどれほど傷つき世を濁らせているか、考えることはない。だから、人間の煩悩の数だけ神さまがいると言われる。交通安全祈願も、自働車が普及して交通事故が起こるようになってから人間が新たに作ったものである。(※)
ワクチン接種圧力という煩悩
〈煩はみをわずらわす。悩は、こころをなやますという〉『唯信鈔文意』
親鸞は煩悩を身と心の両面からとらえている。つまり、身の問題、歴史的つながりや社会的な制度・仕組みなどによって人間を煩わせるものも煩悩になるのだ。
コロナの第6波がやってくると言われる。その対策となるワクチン接種への公的な圧力に懸念を抱いている。「ワクチンを打てば問題は解決される。誰もがワクチンを打つように義務づけるべきだ」という信心もまた煩悩の変形だから。ワクチンを打てる人はそうすればいい。しかし、体質的に打てない人がいることに充分な配慮は必要だろう。また、ハンク・アーロン(野球)、マービン・ハグラー(ボクシング)といった世界的に著名な元運動選手がワクチン接種後に亡くなっている事実も知っておきたい。
※交通事故を起こしてもいい、という意味で例に挙げているのではない。交通事故にならないように最大限の注意をするのは当然である。しかし、神頼みをすれば交通事故が無くなる保証はない。この迷いの事実に目覚め、念仏申すご縁とするのである。最後のワクチンの例も同様。
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