福岡伸一のドリトル的平衡
朝日新聞で掲載された「福岡伸一のドリトル的平衡」では、ドリトル先生と助手のスタビンズくんの会話が展開する。
「でも、ときどき、こんなこと勉強しても何になるんだろう、何かがわかることにどんな意味があるんだろう、と思ってしまうことがあります」
スタビンズくんのこの問いに対して、ドリトル先生は次のようなたとえ話をする。
ドリトル先生のたとえ話
ある夫婦が子どもを授かった。その子は普通とちょっと違っていた。ささいなことに怯え、急に泣き出したり、怒り出したりした。一方、取るに足らないことに熱中し、いったん集中すると止まらない。最初、両親は戸惑った。でも、やがて両親はじっくり腰を落ち着けて、子どもから学ぶことにした。そして、だんだんわかってきたんだ。その子が何に怯え、何に怒り、何を美しいと思うのかということがね。両親は、子どもに対する接し方を変え、環境を変え、自分たちの考え方も改めた。おかげで子どもはすくすくと自由に育ち、幸福な人生を歩んだ。
つまり、わかることによって対象をかえることはできないけれど、わかることによって自分自身を変えることはできる。それがよりよく生きるということではないかな。学ぶことは、不意の授かりものを育むようなものだと思うよ。
この話を聞いたスタビンズくんはこう反応する。
「学ぶことは生きること、わかることはかわることなのですね」
無常がわかるとは
<すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとじ…〉
火葬を終えてのお寺参り、お骨を安置してお勤め(還骨勤行)をする。その時拝読される『御文』「白骨」の一節である。
身近な人、大切な人の死に触れることを通して、私たちは無常ということを教えられる。深い悲しみに染まっているこの身に無常という言葉が伝えられ、耳の中に響く。ご年配の方は一度や二度ではないだろう。
「平家物語」の冒頭にも諸行無常という言葉が掲げられている。そうかそうか、仏教は無常ということを教えてくれているのだ、
と漠然と感じるかもしれない。でも、教えられている、この身に言葉が届いているということと、その言葉をしっかりと受け止めた上で、伝えようとする中味にうなづくこと、わかるということとは全く別と言える。わかるということは、単に頭で理解しているというだけではなく、自分の生き方が変わっていくような歩みが始まるということ。逆に厳しい言い方をすれば、新たな何かが生み出されていないのならば、実はわかってはいないのである。
大切な人との別れを無常の風によるものとわかれば、それが仏縁となり新たな出あいにチャレンジしていくことになるのだろう。
[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」242号から転載]
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