『歎異抄』第五章は問いかける
念仏申す心は、生きとし生けるもの全てと父母兄弟のような和やかな(※)関係を築いていくもの。だから、私 (親鸞)は、〈父母の孝養のためとて、一返にても念仏もうしたること、いまだそうらわず〉 …『歎異抄』第五章
先祖を供養しなければ…といった場合、その亡き人は一般的には自分の身内を指しているだろう。ところが、この狭い心・閉ざされた心をほどき、今までつながらなかった人々との出あいを導いて下さるのが諸仏。そのように先祖を諸仏へと転じるご縁が盂蘭盆会である。
※「和」とは強い立場のものが弱い立場のもののことを忖度する水平な関係。逆ではない。 参考『十七条憲法』
安倍元首相が銃弾に倒れた。暴力による問題解決を、決して認めることはできない。一方で、元首相をお弔いする心が人間の迷いを深める方向に進んでいるように感じている。
在職時の演説で印象に残る言葉がある。〈あんな人たちに負けるわけにはいかない〉自分とは意見が異なる人々、批判する人々に対して、どう向き合うかはとても難しい。とりわけ権力を握った側は、その力を私欲のために使い、抑え込むことも簡単だ。すると、森友学園の問題で自死に追い込まれた元財務省職員赤木さんはあんな人。「原子力緊急事態宣言」が発令されたままなのに、五輪誘致のためにアンダーコントロールされていると演説。つまり原発事故避難者もあんな人。世間であんな人たちとの誠実な対話や説明責任から逃げれても、閻魔さまの浄玻璃の鏡に映る事実は消えない。仏から和やかな関係が願われているから。
念仏申す心は、真実に目覚める心。亡き人を遺されたものの都合のいいように利用するのとは違う。「国葬」という名を掲げる…などして。
[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」248号より転載]
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