沖縄という十字架 密使・若泉敬の生涯
この夏、福井新聞で「沖縄という十字架 密使・若泉敬の生涯」という記事が連載された。戦後の占領体制から独立を果たしたこの国に残された最大の課題である沖縄の返還。この難題に当時の佐藤栄作首相の密使となって水面下で交渉を担当した若泉敬さんは越前市出身の国際政治学者、京都産業大学の教授だった。
死後、一九九六年六月二十二日付の手紙が見つかった。宛先は「沖縄県の皆様」と「太田昌秀沖縄県知事」。事実上の遺書には次のように書かれていた。
「一九六九年日米首脳会談以来歴史に対して負っている私の重い『結果責任』を執り、武士道の精神に則って、国立沖縄戦没者墓苑において自裁(注:自死)します」この時は決断を延期したものの、翌月自宅書斎にて服毒した。
若泉敬さんの心に刻まれた言葉
遺品の中には写真があった。日の丸を持った沖縄の女性で、その傍には何かから切り抜いた「小指の痛みを全身の痛みと感じて欲しい」という一文が貼られていた。この言葉は、1969年2月に衆議院予算委員会公聴会で祖国復帰協議会会長の喜屋武真栄さんが本土に対して放った「沖縄の叫び」だ。
叫びは、若泉さんの心に深く刻まれた。そして、沖縄の返還という大仕事を自分が成し遂げたのだという達成感や喜びを悲しみへと変えてしまったのだろう。返還後も米軍基地が存在する苦しみから逃れられない沖縄の痛みを自らの『結果責任』として重く重く受け止めた若泉さんのような純粋さ誠実さが自分にはあるだろうか、と問われる。
痛みを感じることができない
若泉さんは糸満市にある平和祈念公園を訪れ、戦没者墓苑の前の石畳に直に正座して沖縄戦の犠牲者を悼み、沖縄の人たちに謝罪されていたそうだ。その姿は、同行者によって写真に収められている。
一方、同じ平和祈念公園に足を運んだ時沖縄の人々から罵声を浴びた総理大臣がいた。今度国葬が営まれる安倍晋三さんである。歴代で最長の在職期間ながら、沖縄の叫びを聞くこと、痛みを感じることができなかった、とも言える。沖縄の人々は今回の国葬をどのような思いでお迎えするだろうか。
沖縄だけでない。旧統一教会の被害者、原発事故によって故郷から今なお避難されている人々、「モリカケ」や「桜を見る会」の疑惑に絡む当事者となって最高権力者による圧力に押しつぶされるような経験をした人々…。私たちは、小指の痛みにあまりにも鈍感なのではないだろうか。
諸仏として手を合わせる
亡き安倍晋三さんを諸仏として手を合わせたい。それは自分の立場を守ることばかりにとらわれて(=煩悩)、痛みを感じることができない私たちが、その立場を翻し、痛みを回復していく営み。つまり、念仏申すきっかけを与えられること。そういう道へと私たちを導くはたらきが諸仏である。
[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」249号より転載]
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