水なしでは花は枯れる
この夏、本堂の荘厳(お飾り)をして改めて問われたことがある。門徒の皆さんに立てていただいた花が、二日後にはもうおぼつかない状態になっていたのである。いつもならば何週間も整った表情で彩ってくれる菊でさえ葉っぱの色がどす黒くなっている。どうも水が上がってないように見える。厳しい暑さのせいだろうか。水の中で茎を切ったり、葉っぱも下の方はカットしたりと、それなりの対策はされていたようだけれども…。当たり前のことだが、しっかりと水を吸い上げてない花は枯れてしまう。
報恩とは
報恩講をお迎えする。長年当寺の報恩講でご指導いただいた故泉惠機先生は次のように語られた。 (指月叢書④p26)
―お寺で生まれ育ち、毎年報恩講をお勤めしてまいりました。報恩講、報恩ってどういうことだろうか、その意味がはっきりするようになってきたのは、ようやく最近になってからです。…五・六年前“こういうことか”と腑に落ちた言葉があります。…「報恩という意味は、自分の背景を知ることである」と安田理深先生の言葉が書いてありました。…こうして生きている自分の背景を知ることだと、改めて教えていただき、それ以来、報恩講がちょっと楽しみになってきました。六十歳をすぎてうなづけたことです。
後藤正文の「朝からロック」
さて、朝日新聞で後藤正文の「朝からロック」というコーナーが隔週水曜日連載されている。本年十月十二日の文章に共鳴した。
◆言い負かす言葉ではなく◆
社会問題について声をあげるマイノリティーに向けて、度々「そんなやり方では効果がない」という言葉が投げかけられることについて考えている。
抗議する側に冷静な語気や態度を求める人は多い。しかし、しおらしく従順に臨めというのは、おかしな論理だと思う。
現在の社会の仕組みのなかで静かに暮らしていたのでは解決されない不公正や困難に立ち向かっているからこそ、彼らは強い決意と態度で抗議を行っている。社会の構造の側に立っていると言えるマジョリティーが、彼らの訴えの内容より先にその態度を問うのは、議論を問題の本質から遠ざけることにしか役立っていないのではないか。
私たちのそれぞれが、自分で解決できない新しい社会問題に直面する日が来るかもしれない。困難の当事者になった僕やあなたは「こんなことはおかしい」と声をあげる。しかし、その問題について関わり合うつもりのない人たちが、通りすがりにこう言うのだ。「そんなやり方では効果がない」と。そして問題の本質には誰も触れず、遠ざかっていく。そんな景色を思うと背筋が凍る。
私たちに必要なのは、誰かを言い負かすための話術ではない。お互いの言葉の背景を思い合うような対話と想像力こそが、ギスギスした社会をやわらかくするのだと思う。 (ミュージシャン)
首の飛ぶような念仏
すぐに頭に浮かんだ文章がある。このたび発行した指月叢書④の誌面アイデアを練っている時に、これは絶対に入れようとこだわった一節。真宗大谷派が部落解放同盟から第6回糾弾を受けていた時、米田富さんが真摯に訴えた言葉である。
「何故念仏称えたために、死刑にされるほど恐ろしい念仏を、ご開山が敢えて称えられたか。それ、何です。我々の生活があまりにもみじめで不合理で、そのことがその当時の政治体制、社会体制全体からくることである。したがって、我々は、自覚をして、この政治体制を変革するまで行かなければ、お前達は救われない。そのためにはこの体制を維持しようとしておる権力者をたよりにし、権力者を当てにしておったんではだめだぞということを教えられたのが、あの首のとぶような念仏であったと私は理解しているんです」(「その通りや」の声)
この叫びによって〈南無阿弥陀仏〉なる真実に呼び帰された多くの先師がいた。泉先生はその代表的な人と言える。日ごろ社会の構造の側に立っている自分、長いものに巻かれてしまう自分。でも、そんな自分の背景にその立場を転換せよ、と促し導く水が注がれ続いている。
[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」250号より転載]
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