日ごろのこころにては、往生かなうべからず

新年のテーマ

〈日ごろ本願他力真宗をしらざるひと、弥陀の智慧をたまわりて、日ごろのこころにては往生かなふべからずとおもいて、もとのこころをひきかえて、本願をたのみまいらするこころをこそ、回心とはもうしそうらえ〉             「歎異抄」第十六章から

本年の当院報恩講にて、講師は「歎異抄」の一節を紹介した。繰り返し強調されたのは、仏教とは世間的な価値観(日ごろのこころ)から解放される教え、出世間の教えであること。だから、お寺を世間と同じ場所にしてはダメだとも。世間を超えた日ごろならざるこころ、出世間なる世界(浄土)に出あう(往生する)ことで、世間では見失われている大事なもの、尊いものに気づくことができる。コロナや戦争など不安が蔓延する今日。〈日ごろのこころ〉をひきかえて往生することが確かな安心につながるのだろう。新年のテーマとして掲げたい。

日ごろのこころ〉が死ぬ=往生する

世間では往生際が悪い、雪で車が立往生する、上手くいかなくてとても往生した…等々。往生はいい意味で使われていない。また、人が亡くなることを往生と言う場合もある。

しかし、宗祖親鸞が明らかにした往生とは、浄土という仏の世界、世間を超えた世界に生まれることを言う。それは、逆の表現をすれば、世間的価値観、世間という人間が迷える世界の中で幅を利かせている〈日ごろのこころ〉が、死ぬということである。死ぬのが怖い、死に不安を感じるわれら。〈日ごろのこころ〉に迷わされて生きているからだろう。しかし〈日ごろのこころ〉によってこの不安を取り除こうと力んでも、不安は無くならない。自分では消したつもりでも、また違った不安に悩まされてしまう。

問題なのは、不安ではなく〈日ごろのこころ〉そのものだから。〈日ごろのこころ〉に死んでいただくことが、根本的な解決法になるのだ。この意味で、常に念仏申せ…とすすめられる、それは〈日ごろのこころ〉にとらわれない、大らかで温もりある生き方を歩まれた多くの先師からのお導きと言える。

二人の法務大臣

講師は小泉内閣当時の法務大臣だった杉浦正健さんについて語られた。お婆さんが熱心な真宗門徒、虫も殺せない人でお寺参りにもよく連れていかれたそうだ。法務大臣にとって大事な仕事が死刑執行文書への押印。ところが、任期中この仕事を一度もしなかった。そのため、周りからいろいろと批判されたらしい。しなかったのではなく、信条上できなかったのだろう。

一方、最近辞任された法務大臣。「死刑のはんこを押した時だけニュースになる」と。〈日ごろのこころ〉にどっぷり浸かってしまうと、殺生することに心の痛みを感じなくなるわれらである。

ひっくり返ったら浄土だった

 最後に講師が紹介された言葉の中で印象に残ったものを二つ。

・ひっくり返ったら浄土だった。 妙好人

・「助けてください」と言えたとき、人は自立している。        安富歩

[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」251号から転載]

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