迷いの世界に生まれた私です

宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年〈慶讃テーマ〉

本年の三月二十五日から四月二十九日まで京都の真宗本廟(東本願寺)にて、宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年の慶讃法要が厳修される。慶讃テーマとして―南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をたずねていこう―と掲げられている。そして、同朋新聞などでテーマに関連する記事などが目に留まる。どのように受け止めておられるだろうか。まずもって、たずねておきたいことがある。

世界について真剣に問う

自分がこれまで日ごろの「生活」を積み重ねてきた年月。「生」と「活」に分けて振り返ってみる。大事にしてきたのは「活」ではないだろうか。 活動、活躍、活発、活気…。今ある自分をどのように上手く変化させていくか、高めていくか。そのための工夫に知恵を絞る。それが〈日ごろのこころ〉による営みといえる。でも、何のためにそれをするのか、することが人間である自分にとってどうなのか…。「活」の根っ子部分はぼんやりしたままだ。

別の角度から言えば、「活」の受け皿となっている場であり環境、つまり自分が身を置いている世界について、真剣に問うたことはあるだろうか。「活」の前には「生」があった。そして、「生」は世界を抱えて始まっている。世界の中にこの身は「生」まれ出でた。それは何故なのか。ご用は何なのか。〈日ごろのこころ〉による「活」に明け暮れると世界が見えなくなる。そもそもこの世界は〈まこと〉なのか、人間として「生」まれた喜びを与えてくれるのだろうか。もし、「活」の前提となっている世界そのものが人間である本来性を失わすもの、苦しみの元凶であったら、どんなに耐え忍んで努力を積み重ねても、そこに確かなものはない。

そらごと たわごと、まことあることなき

煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごと たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします    『歎異抄』後序

〔意訳〕煩悩によって身を煩わし、心を悩ます私。世間という迷いの世界で「活」きることにもがいている。けれども、そのような痛ましい在り方に気づき、世間をこえた世界に「生」まれてはじめて、人間であることの〈まこと〉に出あうことができる。ちょうど、蝶がさなぎから脱皮し、成虫になり大空を羽ばたいていくように。だから、念仏申しましょう。

そらごと たわごとの具体例。平和のためにと戦争が繰り返されている。戦力不保持と憲法で定めた国が、自衛隊という名の軍隊に多くの税金を注ぎ込む。その国では、安くて二酸化炭素を出さないからと甚大な被害をもたらした装置を寵愛している。そして、何万年も先まで子孫に危険や経済的負担を押し付けることを愚かと感じない。どこか変だと心がうずいたら、念仏のおはたらきである。

[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」253号より一部編集して掲載]

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