弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず

全戦没者追弔法会

記念講演(抜粋掲載)

講師:四衢(よつつじ) (あきら)氏    岐阜高山教区 不遠寺住職

本年四月二日、真宗本廟(東本願寺)にて「人間はなぜ争うのか」をテーマに、全戦没者追弔法会が勤まりました。法要記念講演は、人間が戦争を繰り返す愚かさ=迷いの構造を仏の智慧によって照らし出し、仏教の果たす役割を指し示すもので、とても共鳴しました。抜粋掲載いたします。

また、今月の掲示板の言葉は記念講演の講題で掲げられた(※)もの。「歎異抄」第1章からの引用です。

※講題にはー物語を超えてーという副題も添えられています。

「善」と「悪」の戦い

〈前略〉 第二次世界大戦のナチスドイツ。空軍司令官から国家元帥となり、一時は総統ヒトラーの後継者と言われたゲーリングという人がいます。…「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、最終的には、政策を決めるのは国の指導者であって、民主主義であれ、ファシスト独裁であれ、国民を戦争に参加させるのは常に簡単なことだ。…国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者は愛国心を欠いていると言い、国を危険にさらしていると主張する以外に何もする必要はない。…」このように語ったと言われます。〈中略〉

現在のロシアのウクライナへの侵略戦争でも、ウクライナのネオナチがウクライナ東部のロシア系住民を圧迫し、殺害したり暴力を振るっていると声高に語られ…悪しき敵は我々の外に、ウクライナにいると示されます。〈中略〉

ゲーリングが言うように、戦争とは政治によってつくられるものです。〝あの国を警戒しろ、攻めてくるぞ、悪しきものはあの国だ。ミサイルを撃っている別の国も危ない。悪は我々の外にある”と誘導しあおるのです。そして、外の悪に対して私たちはその悪から身を守る善なるものだとします。その防衛の戦いは正義の戦いで、自分たちは常に善の側にいるとされます。

しかし、私たちが悪と見ているその相手国の中でも同じような宣伝が行われ、〝敵、悪は外にある。私たちは悪からわが国を守る正義の立場に立つ”と主張されているはずです。そうなると、お互いに相手の悪が自分の正しさの証明となりますから、その善と悪の戦い、対立は譲り合うことができないものになります。

そして結局、力に訴え、戦争に勝つことによって自分の正しさを相手に押し付け、相手が悪かったことにするまで争いをやめられないことになります。しかし、それに巻き込まれる子どもや老人など、普通の人はたまったものではありません。…それにロシア兵士とウクライナ兵士がいのちのやりとりをしなければならない個人的な理由など何もないはずです。

なぜ私たちは、ゲーリングが言った政治的プロパガンダ、宣伝にいとも簡単にあおられるのでしょうか。

一つは、相手のことをよく知らないということがあります。互いに知らない者同士は相手を警戒します。次に私たちは自分が正しいということがとても好きなのです。自分が正しく、善であり、間違いないことで安心できます。それが相手が悪いということで証明されるなら、相手が悪いと言いつのることが楽しくて仕方がなくなります。悪口は蜜の味です。…

力ずくを正当化する物語 そういう自分の中にある自分の正しさを誇る「悪しきこころ」をよく知らされる智慧こそが大切なのだと思います。その智慧から学び、自身の問題を確認し、それを伝え、共有することはできないでしょうか。力ずくの世界は、子どもたちにも相手を怒り、恨み、争うこころを育てます。…私たち人間は力ずくを普通だと考えたり、正当化する物語をつくってきました。〈中略〉

仏教は人間が歴史の中でつくってきた物語や神話が持っている虚構を破り、事実を明らかにする教えです。〈後略〉

〔真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」257号を一部編集して転載]

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