小学校六年生の文集から
生きるって何
生きている
生きているって何
ときどきそう思う
勉強して 遊んで 食べて ねて
毎日が同じ 繰り返し
いったい何のために
生きているの?
勉強するため
それとも遊ぶため
食べてねるため
いったい何のため
生きているの?
聞く 考える 語る
春から開かれている語り合いの場、敦賀組同朋の会推進講座で紹介された小学六年生の詩である。講師のお寺の地元にある小学校が発行した文集に掲載されていたもの。
講座名称は真宗入門講座「聞く 考える 語る」。講師はこうも問いかける。
私は長い間、人の話をおろそかに聞いてきた。しかし、今、私には聞かなければならない声、言葉があり、その声、言葉を発する人と出会わなければならない。今すべきこと、それは耳をすまして聞くこと。
環境省の職員が水俣病の被害者と会合をもった時にマイクのスイッチを切ったことが報道され、大きな問題になった。「人の話をおろそかに聞いてきた」とは、聞きたい話は聞くが、聞きたくない話は聞かないということだろう。また、たとえ聞いたとしてもこちらの都合や時間に合わせて聞くだけ。相手が語り尽くすまでじっくりと身を傾けて聞くことはまれ。
だから、小学六年生が詩を通して発した素朴で純粋、そして極めて重い問いかけを丁寧に聞くことから歩みを始めたい。
〈南無阿弥陀仏〉人と生まれたことの意味をたずねていこう
とはいっても、どう受け止めようか。答えは何かという方向で考えると困ってしまうかもしれない。一方で、これが間違いない正解だ、この通りに生きないと地獄に落ちるぞ、先祖に祟られるぞ、と脅す宗教が社会を混乱させてきたことは記憶に新しい(※)。※オウム真理教・統一教会など
宗祖親鸞聖人御誕生八百五十年・立教開宗八百年慶讃テーマが「南無阿弥陀仏 人と生まれたことの意味をだずねていこう」である。たずねていこうと歩みだすことが尊いのだろう。人に尋ねてみる。場所を訪ねていく。亡き人の生涯をお弔いする…。決着をつけない、わかったことにしない、問い続ける営みが、真実の道を開く。
宗祖親鸞聖人は『歎異抄』第二章でこう語っている。
親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべしと、よきひとのおおせをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。
鎌倉時代、念仏申して生きる人がいた。そして、同じ道を志した人の歴史が私にまで届いている。さあ、この私はどう生きる?
[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」268号から転載]
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