愛楽仏法味

何を体内に摂取するか

新年のテーマ。〈仏法の味を愛樂(あいぎょう)し 禅三昧(ぜんざんまい)を食(じき)とす〉出典は天親菩薩が著した『浄土論』。

最近、食生活の在り方について考えさせられることが少なくない。親しい住職の弟さんの話。ガンを患い抗ガン剤治療を始めたが体調を崩してしまう。思い切って食事療法(玄米食)に転じたところ劇的に改善し普通に生活できるようになった。白米に精米する段階で捨ててしまう糠部分に免疫力を高める成分があり、その効果があったのだろう、と。人によって個別事情が様々なので絶対こうだとは言い切れない。でも、普段何を体内に摂取するかについては鋭敏な感覚が必要だと思う。関連で、コロナワクチン接種についても、メリットが科学的に証明されることなく、デメリットが表面化している事実を伝えておきたい。

念仏の味わいー信受する・信知する

今年の報恩講で講師(佐々本尚氏)が語ったこと。【聞書きー取意】

念仏が開く信心とは、私の心を当てにする、中心にするものではない。出発点が私にある心の場合、良かれと思ったことでも逆の結果が導かれることがある。自分の娘にあーせぇこーせぇとこちらの価値観を押し付けたくない、と思った。だから、自分がいいなあと思う人を紹介する程度に控え配慮したつもりだった。ところが、娘にはそれが押し付けだったんだ、と最近知らされ、ハッとした。

そのように信心は私の個人持ちの心をこえて教えられる味わい、あちらから賜るものである。仏から呼びかけられ、我々はその心を聞き受け止める、大切なことがこの身に知らされる。だから、信受とか信知という言葉で表現される。

仏さまの心は親の心に喩えられることがある。親の心が届いた時、気づかされた時、どのように感じるだろうか。自分は親不孝だった、温かい心に応えることができず申し訳ない・お恥ずかしい…あるいは、そんなところまで考えていたとは恐れ入ったなあ、偉大だなあ、自分は未だ未だだなあ…そんな心が生じているのではないだろうか。親の心は有難いと言われるが、その有難さは、個人的な自分発の心、欲望が満たされてよかった、ということではないのだろう。

[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」273号から転載]

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