怒りをもって まことを求める

仏教の常識・固定観念を破る

仏教は、お釈迦様を理想に掲げお釈迦様のようになる道として伝わった。そのための修行をする場所である寺院は、一般人が生活する世間から離れた山に開かれた。そこで営まれたのは出家生活。独身で剃髪、僧衣を纏い食事は精進料理など厳しい戒律が守られた。

そんな仏教の常識・固定観念を破ったのが、宗祖親鸞聖人。京都の街中で法然上人が説かれた念仏の教えに導かれ、山(比叡山延暦寺)を下りる。そして、肉食妻帯する在家生活の中で歩む仏道を明らかにされた。これは、修行を積み重ねることでお釈迦様のようになろうとする方向が困難なわれらのための道である。

叔父が裁判闘争

仏教徒は、お寺は、僧侶は…だろう…すべき、と常識になっていることの中には、もめごとを起こさないように‼もあるかもしれない。本山(東本願寺)で門徒さんと座談会をした時、仏教を学んで、怒りっぽい性格だったのが穏やかになった気がします??と感想を語られたことがある。

母親の実家・滋賀県長浜市のお寺で生まれた従兄弟が、幼くして近くの姉川に流されて亡くなった。住職である叔父は地域の安全管理に不備があった、と訴えようとした。被告の中には日ごろお世話になっている門徒さんも含まれる。このため、母親など何人かが事を荒立てるような行為はお寺にいるものにふさわしくないから止めるように、と勧告。しかし、叔父は息子が生き返ることはないが、なぜこんな悲しい結末に至ったのか、真実を明らかにしたい、と司法の場を選択した。裁判に勝訴し、河川に安全対策が処されたと記憶している。もう半世紀も前のことだろうか。

煩悩による怒り

仏教は、煩悩からの解放(解脱)を目指している。代表的な煩悩が貪欲(貪愛)と瞋恚(瞋憎)。前者は、欲望に振り回される心、後者は怒り腹立ち。水の河と火の河でその難が譬えられる。

正月早々、米国のトランプ大統領が拳を握った。ベネズエラの石油が思うように手に入らないかららしい。時代・国や民族を超えて貪瞋の肥大化と暴走は歯止めがきかない。

真実(本願)に呼び戻す怒り

それ故、このような憂いを抱えるわれらのために、煩悩ならざる怒りが用意されている。不動明王(※)は怒りの焔の中に立つ。インドの不可触賤民の子どもの姿を模していると聞く。自由や尊厳を奪われた弱い立場の人々の声だろう。その叫びや呻き、深い悲しみの中に響く怒りがわれらを真実(本願)に呼び戻し、共鳴の渦を巻き起こす出来事は珍しくない。

近年では、真宗大谷派が支援したハンセン病国賠訴訟や珠洲原発反対運動。また、戦国時代の一向一揆などが挙げられる。では、煩悩か、ならざるか、怒りの違いはどこにあるのだろう。〈まことを求める〉純粋な心があるか、否かか?また、たとえ煩悩でも真実(本願)に目覚めるきっかけとなれば、怒りは尊いご縁といえる。

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