エッセイスト岸本洋子さんの「授業」
全国の中学生に様々な分野で活躍する人が語る「授業」が福井新聞で連載されている。2月5日「総合学習」の先生はエッセイストの岸本葉子さんだった。岸本さんは中学時代、父親が失業。生徒がほぼ全員参加するスキー合宿に費用を心配して、あることすら話せず欠席したことがあった、と振り返る。
「私のこれまでを思い出して、幅広い物の見方が自分を救うと今日はお伝えしたい」そして、「生きていくために物差しをたくさん持つことが学ぶ意味だと思います。その時役立つのが教科書で学んだことです」」と。広い視野で柔軟な価値観を養う…確かに大事な学び。一方で、全く別な学びもある。
仏の物差しから人間の物差しを問う
物差しを使ってあれやこれやを量り、そのよしあしを判断する。物差しの種類をたくさん抱えて上手に使い分けする人を知恵ある人というのだろう。しかし、物差しはどれも人間が作ったもの。また、そんな物差しもあるのか、なるほどなあ、と別の物差しを評価するのも人間の物差し。そもそも人間は迷える存在。つまり、どこかに限界がある道具、歪み偏りねじれを伴っている欠陥品の中で、いずれかを選び続けているのだろう。そんな人間の物差し全体の闇を照らし出すのが仏の物差し。仏からの呼びかけ(念仏)によって賜る智慧の物差しに導かれる学びは、驚きであり深い味わいでもある。
「忠臣蔵」という物差し
十二月十四日に生まれた。幼いころ、忠臣蔵(※)の討ち入りの日だと教えられた。非常に好意的な雰囲気で。江戸時代にそんな出来事があったのかと歴史に強く興味を持った。大学で歴史専攻(西洋史だが)に進んだきっかけの一つともいえる。
最近、ある寺報に目を通してハッとした。忠臣蔵は本来テロリストによる暗殺事件であり大きな罪のはず。それがいろいろな枝葉がついて美談になって伝わってきたのは、この国が長年仇討ちを善とし制度まで設けて認めてきた文化的な背景によるものだろう…と。なるほど、鎌倉時代には有名な曽我兄弟による仇討ちがあった。やられたらやり返せ。そう思わないような人間はダメだ。そういう物差しが何百年もの間当たり前のものとして継承され、多くの人々が順ってきた。自分もその一人である。
だから、この国では国際的には少数派になっているにもかかわらず、公権力による仇討ち=死刑制度の問題性が問われない。また、憲法で戦争放棄が定められているのに、やり返すため、それどころかやられる前にやってしまうための準備に巨額の予算を投入している。
仇を討ってはならない
そんな物差しが意識することなく自分に備わってしまっていること。そして、この物差しをつかまされて生きていることの狭さ愚かさに気がついた。同時に、親鸞聖人の師法然上人出家の動機、すなわち夜討ちに遭った父の遺言「決して仇を討ってはならない」が重く響いてくる。
[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」265号から転載]
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