「翼をください」消えた二番の歌詞
フォークグループ「赤い鳥」が一九七一年に発表した「翼をください」(作詞=山上路夫、作曲=村井邦彦)の二番の歌詞。〈子どもの時夢見たこと今も同じ夢に見ている…〉と続く。音楽教科書に掲載され合唱曲としても人気がある曲。サッカーの応援歌として使われ、オリンピックでも歌われている。二〇〇七年には「日本の歌百選」に選出された。
元々の曲では二番の冒頭にあった歌詞が、最近の歌手によるカバー演奏などでは消えている場合が多い。七十年代を生きる人々に対して共鳴を生んでいた?メッセージが、八十年代後半から九十年代に亘るバブル時代を経て世紀が変わり、今や伝わらなくなったのだろうか。
あやまって学問した?
『歎異抄』の第十二章は学問することによる迷いに対して厳しく指摘する。
〈本願を信じ、念仏をもうさば仏になる。そのほか、なにの学問かは往生の要なるべきや〉〈あやまって、学問して、名聞利養のおもいに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんという証文もそうろうぞかし〉
名聞とは名誉、利養は富。また、往生はとらわれる心から解放され自由になること。いわば、〈この大空に翼を広げ飛んで〉いくようなのびのびとした自由な生活、と言い換えることができるかもしれない。
能登の現場に立ち、問われたこと。この数十年われらはあやまって学問をして、名聞利養のおもいに住するひとになっていたのでは…。
珠洲の現場で聞く
能登での活動中、珠洲市の高屋地区を案内される機会があった。海岸は四メートル?隆起し、がけ崩れも起きている。お寺(真宗大谷派圓龍寺)の庫裏は一階がつぶれていた。
高屋地区は約二十年前計画が凍結された珠洲原発の建設予定地だった。計画が推進されていたころ、どのようなやりとりがあったか、生々しい話を聞いた。
「お金は何億でも好きなだけ出しますから。立派な本堂を建てましょう」「(金沢から見ず知らずの人がいきなりやってきて)どうか、うちの会社の社長になってください」
しかし、建設反対の立場で中心人物だった住職の塚本真如さんは,、,富・名誉どちらのお誘いに対してもイエスとは言わなかった。更に、多くの僧侶や門徒さんが同じ志をもって立ち上がっていった。
ワシにはできんけどなあ その当時、この真宗大谷派関係者による行動、南無阿弥陀仏の名号の旗を手に持ち現場を歩いている写真を掲載した新聞記事を先代住職から見せられたことがある。顔を紅潮させて「巧、これを見てみい。ここに親鸞が生きとるぞ。…(間)…ワシにはできんけどなあ」と。だからお前がヤレという風に聞こえた。
以来、この言葉がずっと耳の底に残っていた。ひび割れや滑落で痛んだ能登の道は、先代に出会い直す道でもあった。
[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」266号から転載]
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