魔境には停まるべからず

便利決済の裏側にあるもの

お盆参りでの会話。 「東京に住む息子を訪ねました。買い物の支払い時にレジに並び財布を手にしたものの、現金をだそうとするのですが、上手くいきません。もじもじしていると、後ろのほうでチッという声…。肩身の狭い思いをしました。スマホでのキャッシュレス決済が普及していてピッ、ピッと素早く支払いしていく流れの中で、どこか息苦しさを感じます」

「ぼくも現金派なのでよくわかります。でもカードは使います。この間、財布を無くして(結局後で見つかりましたが)困ったことは、カードを再発行したことによる関連手続きの面倒くささです。今、いろんな支払いのためにカードを登録してありますが、それらを全て入力し直しすることが必要になって…」

『北の国から』の名シーン

昭和の名作ドラマ『北の国から』にこんなシーンがある。

北海道富良野から上京する息子(純=吉岡秀隆)を送ってくれと父親(五郎=田中邦衛)はトラック運転手(古尾谷雅人)に現金の入った封筒を渡す。出発後運転手はそのお金を「受け取れん」という。農協の袋に入った新札の一万円札二枚。泥がついている。手を洗う暇もなく働いて稼いだとわかる。「お前の宝にしろ。一生とっておけ」

お金は通常は取引媒体として使われている。つまり、一方の思う価値ともう一方の求める価値が釣りあっていることを額面(紙幣)という形を通して確かめ合っているのだろう。

しかし、五郎の渡した紙幣は単なる紙切れでなかった。泥まみれになって働いた結果が具体化されたもの。なぜ、泥まみれになったのか。父親の子どもに対する深い愛情が泥をも厭わねという形で表現されているのだろう。運転手は、その紙切れには単なる取引媒体としての役割をこえた価値=尊い心が宿っていると強く感じ取ったのだろう。その心に触れて胸がいっぱいになった喜びを率直に伝えたのだと思う。

お金を稼ぐのは大事。もっと大事なことは、どんな心を持って何のために稼ぐかだろう。

見えなかったものが見える世界(浄土)

カード決済やキャッシュレス決済が全面的にダメというのではない。そのようなやりとりの中で、泥まみれになって働いた内容がコンピュータ上の単なる数字になり一瞬にして消えてしまう、大事なこと・尊い心が見えなくなってしまう。そんな娑婆(世間)に生きているわれらが〈南無阿弥陀仏〉と照らされている、と受けとめたい。

宗祖親鸞聖人は『教行信証』証巻で中国僧 (唐の時代) 善導が著した観経疏から引用する。

 帰去来(いざいなん)、魔境には停まるべからず。…ただ愁歎の声を聞く。

娑婆 (世間)とは魔境,、つまり魔法によって支配される世界。すると、人間であることがわからなくなって悲しみ歎くばかりになる。だから、そんな世界に停まらず、大事なことが消え去ることなく、見えなかったものが見えるようになる仏法の世界(浄土)に帰ろう。

[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」271号から転載]

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