田中角栄元首相が軍隊で体験したこと
政治家の戦争体験を取材したシリーズ記事(朝日新聞=戦争と政治家 戦後80年の証言=)から。田中角栄元首相の秘書を23年間務めた朝賀昭氏はこんな言葉を幾度となく聞いたという。「戦争を知っているやつがいるうちは日本は安心だ。戦争を知らない世代がこの国の中核になった時が怖い」
田中元首相は徴兵検査で名誉とされる「甲種合格」で旧満州へ。しかし、そこは理不尽ないじめの現場だった。私物検査で外国人俳優の写真が見つかり、鼻の骨が折れるほど殴られた。柱にしがみついてセミの鳴き真似をさせられた。「軍隊では、人間が常軌を逸した行動をとる。人権もない。そうさせるのが戦争なんだ」若い議員から領土問題で勇ましい言葉が出ると、たしなめた。「戦争はしちゃいかん。話せばわかる」中国や旧ソ連・中東との平和外交を展開した。
今なお続く軍隊の仕組み
戦争は終わった。しかし、戦時中大きな力を発揮した仕組みが、今もなお、人々を苦しめている。軍隊は解散したが、軍隊を成り立たせたタテの一方的上下関係の愚かさが問い直されることなく生き残り、文化的伝統のようなものに変装しているからだ。
その典型といえる悲劇が、この夏甲子園における高校野球で明らかになった。上級生による下級生に対する暴力事件。これは、田中元首相が経験したものと同類の理不尽ないじめである。上官の命令は天皇の意思を代弁するもので、絶対に従わなければならない―。「常軌を逸した行動をとる。人権もない」軍隊で日常化していた場面が、戦後スポーツ教育で繰り返し再演されている。野球以外の競技で問題になった事例。更には、一般企業や芸能界での事例…。この数年振り返るだけで、あれやこれやと幾つも浮かび上がる。そして、それらは自分が中学時代の部活で受けた苦い思い出に重なる。
何に「身」を煩わされているのか
煩は、みをわずらわす。
悩はこころをなやますという。 『唯信鈔文意』
煩悩に迷わされているわれら。でも、この煩悩の正体がなかなかはっきりしない。煩悩って「心」の問題でしょう、といわれることがある。宗祖親鸞はどうだろう。『唯信鈔文意』で「身」と「心」に分けて受け止めている。「身」の問題を通して、「心」は悩まされるからだろう。「身」の置き場がどうなっているか、大事にされているか。時間と空間、歴史と社会につながっている「身」。縁の集合体である「身」に向き合い、煩悩から解放される方向をタテ(一方的)からヨコ(双方向)への転換として見出したのが宗祖が称えた念仏。この意味で、〈南無阿弥陀仏〉は軍隊に倣った仕組みによって「身」をわずらわされるわれらの悲鳴・叫びの声である。
さて、高校野球では、多くの選手が頭髪を丸刈りにしている。自分の意志でそうしているのならば問題ない。でも、丸刈りは軍隊での身だしなみルールだった事実は重い。にもかかわらず、「高校生らしい」「清潔感があっていい」等々好意的な心情を抱くことがある。それほどにこの「身」は軍隊色に染められているのだろう。「身」の中に戦争を認め、話しても無駄だ、と対話をあきらめる色素が消えていない、ともいえる。
自衛隊は昨年、新入隊員 (男性)の丸刈りルールを廃止した。タテからヨコへ転じる尊い一歩?
[真宗大谷派西誓寺寺報「ルート8」282号から転載]
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